こんな天候では誰も登山者がいないようだった。駐車場には車が一台もまだなかった。それより何より驚いたのがメジロアブの襲来であった。駐車場に着くと一斉に車を取りまいてしまい、見る間に包囲されてしまったのである。そんなことからザックのパッキングや身支度は車の中で行うことにした。
このアブにやられたら一溜まりもない。車から出るとたちどころにメジロアブが襲ってきた。顔はメッシュ帽子を被っているからよいものの手当たり次第といった具合にアブは体めがけてぶつかってきた。これでは休まずに歩き続けるしかなさそうだった。今日も蒸れはひどくてたちまち汗が噴き出した。
南俣沢出合の渡渉点を過ぎると急登が始まる。体調は相変わらず思わしくないのでペースはゆったりだ。まもなく雲の中に入ってしまったのか周囲は濃霧に覆われてくる。汗は止む暇もなくTシャツの両袖からは汗がぼたぼたと音を立てて滴り落ちた。
登山道は最近道刈りをしてくれたらしく広々としてい歩きやすかった。大クビトまでくると濃霧は次第に霧雨となっていた。紫ナデまでは急坂が続いた。雨は次第に本格的に降り始めていた。紫ナデまできたところでカッパを着ようとしてザックを探したがなかった。どうやら雨具を入れ忘れたようであった。メジロアブのせいで車内であわててパッキングしたせいかもしれなかった。僕はザックからツェルトを取り出して被ることにした。そして雨が止むまで待つことにした。疲れてもいたのでちょうどよい朝食時間でもあった。僕はそのうちザックを枕にして眠っていたようだった。
鈴の音と足音が耳主から聞こえてきて眠りからふと眼が覚めた。ツェルトからでてみるとちょうど紫ナデに二人の登山者が登ってきたところだった。茨城からきたという二人は初めてこのコースを歩く人達のようだった。こんな天候の時に登ってくる人がいるとは思わなかったので僕はびっくりした。時計をみるともう10時になろうとしていた。紫ナデに着いてから1時間も眠っていたようである。休んでいる間に雨は小降りになっていた。
雨が止まないならばここから引き返そうかと考えていたが、雨さえ上がればやはり障子ガ岳には登りたかった。そんなことを考えていると再び雨が強めに降り出してきてしまった。どうも今日はこんな不安定な天候が続きそうな気配だった。二人組はカッパをきて紫ナデから障子ガ岳に向かっていった。ここから下っても2時間。粟畑まででも2時間。ならば登った方が増しだろうか。しょうがないので僕はツェルトをポンチョ代わりにして障子ガ岳に行くことにした。午後から晴れるという予報も背中を後押ししてくれたようだった。
山頂付近は相変わらず雲に隠れたままだった。茨城の二人には途中で追い付いてしまった。しょうがないので先を行かせてもらった。展望は全く楽しめないだろうと思われていたのだが、少しずつ晴れる兆しもみえている。小障子付近までくると障子ガ岳の名物岩壁や沢筋に残っていた雪渓なども望むことができて心地よい満足感に浸った。障子ガ岳山頂はガスに包まれていた。標柱や三角点を確認してさらに前方に進み、まもなくすると障子ガ岳の南峰だ。ここからは次第に霧が晴れてくる兆しが感じられた。出谷川の対岸には以東岳の山並みがうっすらと見え始めていた。
にわか造りのポンチョは障子池付近でようやく脱ぐ事ができた。紫ナデで着替えた山シャツはすでにびしょぬれになっていた。これでは何のためにポンチョもどきを着たのかわからない。ザックを探してみるとTシャツがもう一枚でてきたので再び着替えることにした。今日は異常な程汗が流れていた。振り返ると久しぶりに眺める障子ガ岳がすっくとした三角形の頂を見せている。ここではしばらく写真を撮ったりしながら時間を過ごした。鮮やかな緑に輝く草原と障子ガ岳が映った障子池。ここはまさしく山上の楽園のようなところだった。
粟畑の手前からは天狗小屋が見えた。この頃になると日射しもときどき降り注ぐようになっていた。粟畑までは6時間かかって到着した。1時間は寝ていたので正味5時間か。体力が大分落ちていることを思わずにはいられない。体は異常なほど疲労を感じていたが、しかし、ここまでくれば後は下りの行程が待っているだけだ。
竜ガ池の水場ではシャツを脱いで全身の汗を拭き、心ゆくまで沢水を飲み干した。すると体がリセットしたような爽やかさが一時的に戻った。南俣沢が近づけばまたメジロアブが襲ってくるだろうということを考えると気が滅入ったが、あとはバカ平をめざして下るだけなのだと思うと気力が少し湧いてくるような気がした。