泡滝ダム発は午前6時。平日にもかかわらず車はすでに4台ほどとまっていた。1台は山小屋の管理人としても、紅葉のこの時期、登山者が絶えることはないようである。しばらく平坦な山道を進み、冷水沢吊橋を渡ってさらに二つ目の吊橋に着く。この七ツ滝沢吊橋は掛け替え工事中のため、すぐ側に仮橋が設置されていた。ブナやミズナラの樹林帯を歩いて行くと、いよいよ七曲がりの急坂となる。朝方まで降り続いた雨のせいもあって登山道にはかなりの水が流れ込んでいた。急登に汗が流れたが、このコースは水場が豊富なのがよい。冷たい清水で渇いた喉を潤すとそれまでの疲れも癒されるようだった。急坂を登りきると大鳥池である。小屋が近づいたところで管理人の藤井さんと久しぶりに出会い、しばらく立ち話をした。藤井さんによると現在NHKで放送中である「日本の名峰」の撮影隊が昨日まで入っていたとかで、今日は大朝日岳のはずだという。それは楽しみだなあと喜んでいると、放映は来年だというからまだまだ先の長い話であった。
今日は久しぶりにオツボ峰コースで以東岳をめざすことにした。そして足の状態をみながらだが、オツボ峰から明光山まで歩いてみるつもりである。このコースを考えること自体、足はかなり快復しているのかも知れなかった。出発が早かったこともあって時間はたっぷりとある。大鳥池周辺の紅葉はまだまだ早かったが、長い距離を歩くには一番いい季節でもあった。それでも三角峰を過ぎるとようやく色付いた潅木が目立つようになった。残念ながら以東岳や山小屋は薄雲に隠れていて見えなかったが、ときどき雲が流れて眩しい陽射しが降り注ぐと、秋の澄んだ青空が顔をのぞかせた。
足の具合には問題なく順調にオツボ峰に到着した。風がかなりあって周辺はガスに包まれていたが、尾根の裏側に回ると風が幾分柔らかくなった。ここでザックから不要なものを取り出し、荷物を軽くしてから明光山へと降りて行くことにした。しかし、降りてすぐに笹薮が行く手を遮るようになる。信じられなかったが、登山道はほとんどヤブと化していて廃道同然のような状態になっていたのだ。これには驚くしかなかった。このコースはところどころに湿地帯があり、そこだけはヤブから解放されたが、コースの大部分は背丈を超すほどの笹薮に覆い隠されていた。それに加えて朝まで降り続いた雨である。笹薮を漕ぐとたちまちズボンがぐっしょりと濡れてしまい、急いで雨具とスパッツを履きなおした。ルートはほとんどわからないが、笹の状態からかすかな道形を想像しながら少しずつ進んだ。足元が全然見えないので時々大きな石に躓き、滑っては転んだりした。
オツボ峰からは通常1時間もあれば明光山まで下れるところを今回は1時間20分ほどかかった。ヤブ道に足を取られたりして余分な時間がかかっていた。明光山からは偵察を兼ねて少しだけ降りてゆくことにしてみる。これまでの笹薮からは一転して、明瞭な尾根道は歩きやすいものだった。このまま下って行けば出谷川に着いてしまいそうだった。登り返しを考えると気が遠くなりそうなので900m地点で引き返すことにした。樹林の間からは大きな川の流れが見え隠れしていた。もう出谷川は真下のようだった。こうしてみるとヤブ道となっているのは明光山からオツボ峰間だけのようである。しかし天狗小屋から出谷川を通って明光山、以東岳へと登るこの渋いルートも、明光山から上が今回のようなヤブでは、そう遠くない時期に地図上から消えてしまうのではないか、といった一抹の不安がよぎった。しかし一方では自然の山に戻るのはある意味、歓迎すべきことなのかも知れなかった。
明光山へ登り返したところでようやく一息をつく気分になった。ここからはエヅラ峰が正面にみえるところだ。1200mちょっとの明光山周辺は青々としていて紅葉にはまだ早いようであった。この頃になると薄雲も晴れて上空には青空が広がっている。以東岳の稜線を見上げてもすっかり雲がなくなっていた。オツボ峰まではヤブ道でさえなければ紅葉を眺めながらの快適なコースなのだが、これから再びヤブに入って行くことを考えると、何となく気持ちが重かった。オツボ峰へは1時間40分かかった。下りも登りの時間もあまり違わないのはヤブ漕ぎに時間をとられたせいである。オツボ峰から以東岳へと向かうと稜線は再び濃霧に包まれる。日本海からの猛烈な風が朝日連峰にむかって吹き上がっている感じだった。
以東岳には4時過ぎに到着した。周りは何も見えないホワイトアウトであった。しばらく晴れるのを待ってみたが、ガスは濃くなってくるばかりだった。時間が経つにつれて強風とともに薄暗くもなってきていた。標識が無ければ小屋への道さえわからなくなるほどで、山頂からの展望は明日に期待するしかなさそうだった。
以東小屋では新潟からの5人組と単独が2人いるだけであった。5人組は小国までの縦走をするらしく、タクシーで泡滝ダムまで入ったという。今日は貸し切りのような山小屋も明日からは連休なのでかなりの混み具合になるだろうかと、すこし心配気味のようである。私は2階にザックをおろし、とりあえず水くみに出かけた。まごまごしているとヘッドランプが必要なほど夕刻が迫っていた。夕食はロウソクを灯しながら一人で楽しんだ。他の人達は1階に陣取っているので、一人だけの静かな山小屋の夜が更けていった。
翌日はガスのためにご来光こそ見られなかったが、6時頃からすっかり晴れ上がった。私は昨日の疲れがだいぶ残っていたのか、太股やふくらはぎの筋肉痛がかなりひどい状態だった。しかし心配していた左足の靱帯は特に痛むことはなく、かなり快復したと思って良さそうである。シュラフに入ったまま、コーヒーを淹れながら今日の行程を考えてみる。このゆったりと流れる時間は疲れを忘れさせてくれるようだった。そして焼きそばを作りながらワカメスープを飲み、朝のデザートを食べながら朝茶を飲んで今日の朝食を締めくくった。
小屋から下る前に以東岳を往復してくることにした。山頂からは朝日連峰の大パノラマが広がっていた。北には鳥海山がうっすらと影絵のように見えていて、月山はというと異様に近くに聳えている。南には大朝日岳への長い縦走路が延々と続き、見渡す限りの山、山、山である。四方八方に広がる連綿とした山並みは、やはり朝日山地と呼ばれるだけのことはあるようである。この雄大な光景はまさしく天上の楽園を思わせた。昨日は山頂からの写真を撮れなかっただけに、そこらじゅうの風景を手当たり次第に撮影した。紅葉は今がちょうど盛りであり、赤や橙色に色づいた樹木と黄金色の草紅葉。そして青々としたハイマツとのコントラストは息を飲むような美しさだった。
山小屋から下り始めると早くも今日上ってきた登山者と行き交うことが多くなった。眼下には大鳥池があり、キツネ色に輝く草紅葉が眩しいほどである。草原地帯が終わるとブナ林の樹林帯に入り、あとは東沢まで一気に下ることになる。この直登コースは短時間で登れるから好きなのだが、今日のような好天の時にはウツボ峰コースを下る方がよかったのかも知れなかった。
東沢に降りてしまえば登山口まではいくらもかからない。しかし、私は昨日の明光山往復でかなり疲れ切っていたようである。すぐに登山口に向かう気にはなれなかった。大鳥小屋ではザックをおいてしばらくキノコ採りなどをしながら大休止をとることにした。あまり収穫もなかったキノコ採りから戻ると、大勢たむろしていた登山者たちはみんな以東岳に登って行き、小屋前のベンチでは大鳥池までのハイキングに訪れていた地元の女性が二人いるだけだった。私は彼女たちとしばらく他愛もない話に時間をつぶした。湖面に降り注ぐ陽光は小春日和を思わせた。のんびりと大鳥小屋で休むのは久しぶりであった。日がな一日こうして山小屋で過ごすのも悪くはないなあと、大鳥池を眺めながら2日間歩いてきた道のりを振り返ってみた。
工事中の七ツ滝沢吊橋 |
大鳥小屋で |
オツボ峰を仰ぐ |
明光山から望むエヅラ峰 |
明光山と障子ガ岳(奥) |
オツボ峰からの以東岳 |
以東小屋と大鳥池 |
朝日連峰の主脈縦走路(以東岳から) |
大鳥池(以東岳から) |
以東小屋付近から月山方面を望む |
草紅葉と大鳥池 |
大鳥小屋 |