山 行 記 録

【平成17年8月28日(日)/朝日連峰 三体山】



三体山の山頂で


【メンバー】単独
【山行形態】夏山装備、日帰り
【山域】朝日連峰
【山名と標高】三体山 (さんたいさん)1255.9m
【天候】晴れ時々曇り
【行程と参考コースタイム】
駐車地点10:10(385m)〜桂谷分校跡10:30〜登山口10:45〜雨量計跡11:50〜三体山12:35-13:00〜登山口14:00〜桂谷分校跡14:12〜駐車地点14:30


ルート略図(10万地形図)

 【概要】
 朝日連峰南端の名峰である祝瓶山から真南に派生する長い尾根がある。柴倉山や合地ノ峰、三体山などが連なる1200m前後の山並みがそれで、この尾根は三体連山とも呼ばれ、私の自宅付近や長井市の白川橋から西山を眺めるとちょうど正面に見える山である。初冬、いち早くその山肌が初雪に白く輝き、春は遅くまで残雪が残る山で、葉山山塊の少し奥にあって、小さい頃はなんの山なのかよくわからなかった。その三体山は祝瓶山から南へ9kmほどの地点に聳えるピークで、この三体山に久しぶりに登山道が切り開かれたと聞いたのは数年前のことである。暑い夏の盛りであったが、ずいぶんと気になっていた山でもあり、急に思い立って登ってみることにした。

 この三体山を登る魅力のひとつとして、今となっては幻の街道といわれる西山新道がある。この西山新道については郷土資料の「長井市史」に詳しいが、今から約130年前の慶応3年、当時、米沢藩の主要な輸送路であった最上川船運の運賃が高騰し、手詰まり状態となっていた長井の商人達はその難局を乗り切ろうとして、船運には頼らずに山岳地帯を横断して直接日本海に出ることを思いつく。のちに絹の道、塩の道と呼ばれることになるこのルートは、長井市の入野川から入山し、三体山を経由して、金目川、石滝川へと下り、小国町石滝に出て越後村上に向かうというもので、当時の長井町や小国村の豪商達が、私費を投じて切り開いた山岳路であった。しかし、不遇というのか、この長井と越後村上を最短で結ぶという新道が開通してわずか2カ月後、大政が奉還されるという歴史の大転換が起き、徳川幕府が崩壊してしまった。そして翌年には戊辰戦争が勃発し、軍事上の関係もあって、西山新道に新しく掛けられた橋等は無惨にも壊されてしまい、通行不能となる。その後は宇津峠道開削や新越後街道の整備などによって、西山新道は商業用路としては全く省みられこともなくなり、いつしか廃道となったものである。この西山新道については歴史上、貴重な史跡として保存できないかどうかなど、地元の長井山岳会が中心となって、何年か前から市に要望したり、そのための探索登山を続けていることなどを以前から聞いていた。この西山新道が今回の三体山のすぐ南西側を通過しているのである。こんなこともあって、個人的にはとても気掛かりとなっていた山でもあった。

 三体山への登山道は、今はなくなったが、長井市最奥の集落であった、旧桂谷(かつらや)部落を通過する。桂谷部落は木地山ダム付近からさらに山奥へ入った、大体あのあたりだとは聞いたことがあったが、訪れるのは今回が初めてである。ちなみに私の山中間の先輩(故人)に、かつて桂谷出身者がいた。木地山ダムへ向かう、狭くて急峻な懸崖をへつるように切られている県道を進み、野川第二発電所を通過すると、以前まであった野川の左岸へ渡る橋は、現在施工中の長井ダム工事のため通行止めとなっていて、その上流に鉄製の仮橋がかけられてあった。   

 駐車場といっても特になく、仮橋から左岸に渡ってまもなくの地点である合地沢付近の路肩に車を止めた。そして川底への道をおりてゆくと吊橋に出る。16年1月完成したばかりのまだ真新しい吊橋で、その吊橋を通って再び野川の右岸に渡り返し山道に入って行く。この付近は昔から野川入会山共有地組合の所有地と聞いていたが、歩いている道も地元民が山菜などを採取するための山道のようであった。山腹をへつりながら進むと割合に広々とした場所に出る。そこには八月ももう終わりだというのに、時期はずれのような新鮮なワラビなどがかなり残っていて、妙な異空間にでも迷い込んだような不思議な場所であった。ここはかつての桂谷部落があったところらしく、よくよく眺めるとなんとなく昔の集落の跡や田畑の雰囲気が残っているところだった。少し先で切石の基礎部分のようなものが道の途中にあり、まもなく林道らしき所に出ると、目の前の杉の木には「桂谷分校跡」と「三体山登山口⇒」と二つの標識がぶら下がっていた。分校跡地とはいっても、辺りはヤブと化した草木が伸び放題で、その面影はどこにも見当たらなかった。

 標識に促されて草むらに半分覆われたような道を登山口へと歩いて行く。草は背丈以上にも伸びて、ヤブのようになっていたが、まもなくはっきりとした砂利道となる。軽トラック1台が通れそうな林道を暫く歩くと、やがて30分ほどでようやく三体山の登山口に着いた。ここには「三体山登山口」と「平野開協」が併記されていたが、「平野開協」とはたぶん「平野地区環境開発整備促進協議会」の略称なのだろう。ここは尾根の取付となっていて、いよいよ本格的な山道に入って行くようであった。

 ここからの山道は明瞭で、尾根を忠実にトレースしていたが、勾配は驚くほど急で、まるで桑住平から祝瓶山への急峻な登路を髣髴とさせるようであった。良くいえば無駄のない急勾配が続いたが、今の私の体力にはかなりきついものだった。さすがに胸突き八丁のような箇所にはトラロープが張られていて、このフィックスロープは山頂までに4ヶ所ほど設置されてあった。いつのまにか頭や背中から汗が噴き出し、首に卷いていたタオルがすでにびっしょりと濡れていた。途中からはヤセ尾根となり、両側の見通しも良くなって、吹き渡る風が心地よかった。ミズナラとヒメコマツが混じる林間からは、左手遠方に長井ダムの工事箇所が見えており、そのかすかな工事の音に混じって、過ぎ去る夏を惜しむかのような蝉の声が頭上から降り注いだ。

 二つほどの小さなアップダウンを繰り返すと地形図にある819mピークを通過する。このピークから少し下るとまた急坂が続いた。周りはミズナラに加えてブナが目立つようになった。この頃になると私はかなり疲れていて、水分を補給するために何回も休みをとらなければならなかった。風がなくなるとすぐに体温が上がり熱中症が心配だったが、ときどき流れてくる涼風が疲れを癒してくれて、私はそのたびに励まされて歩き出すような具合であった。雨量計跡(標高925mとある)を通過するとまもなく右手から上がってくる尾根と合流し、そこからは左に折れてなおも急坂を登って行く。

 三体山山頂には12時35分に到着した。駐車地点から約2時間30分かかったことになる。最近、体調不良が続いている私にしては、久しぶりの長丁場の登りであった。山頂は小広く刈り払いがされており、中心付近には伽羅(きゃら)の老大木が鎮座し、「臥竜の松」や「三体山史跡西山新道探索訪登山」「平野地区環境開発整備促進協議会」と書かれた標識や標柱がある。標柱の裏側を見ると平成17年7月24日と日付があり、その探索登山はつい先日行われたばかりのようであった。

 右手の北側に少し進むと三角点と山頂の標高を示す標識があり、その先が展望台となっていた。「竜神大橋展望台」の標識がブナの枝にぶら下がっていたが、あいにくの曇り空ではその「竜神大橋」もうっすらとしかわからず、楽しみにしていた祝瓶山などは薄雲に隠れて見えなかった。今日の目的の一つとしていた西山新道については、山頂の南側に「史跡、西山新道、下り15分」の標識があり、踏跡がなんとなく先に続いているようであったが、半分ヤブ道となっていて簡単には進めそうもなかった。その様子を見るだけで、私は気持ちが萎えてしまい、今の体力ではそのヤブを漕ぐ気力まではなかった。雨が降りそうな空模様だったが、薄雲が去ると再び真夏のようなギラギラとした陽射しが戻ったりした。今日はどうもこんな天候で経過しそうで、どうやら雨の心配はなさそうであった。私は予想以上に疲れ果ててしまい、ここで昼食を兼ねてしばらく大休止を取ることにしたが、もう少し視界が良くて気力も充実していれば、祝瓶山へと続く三体連山の状況や西山新道の様子だけでも知ることができたかも知れず、地元の歴史を振り返ってみようとした山行としてはいささか未練が残ってしまった一日であった。


新しく掛けられた西栃窪下桂谷吊橋


桂谷分校跡


三角点と標識


山頂にある西山新道への案内標識


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