(一日目)
この週末は2日間とも雨の予報がでていた。先週末もこの登山口まできていたが、降り止まない空模様を見て山行を中止していた。南俣出合の駐車場に着いてみると、空全体に雲が広がっている程度でまだ雨の降る様子はなく、取りあえず予定通り登ってみることにした。駐車場には車が1台だけ停まっていたが人影は見あたらなかった。東の空が白々と明るさを増す中、南俣出合の畑を通って尾根に取り付くと、しばらくバカ平と呼ばれるカラマツ林の緩やかな登りが続いた。途中で日の出が始まり、後方から真赤な朝焼けの光が差し込むのを見て、これはもしかしたら好天の兆しだろうかと今日の天候にすこし期待した。しかし一向に青空が広がる気配はなく何度見上げても厚い雲が広がっているばかりで、朝焼けが終わると再び夕暮れのような薄暗さに包まれた。竜ヶ岳の北面をトラバースし、右手の尾根に登り返していると、昨日、天狗の小屋泊まりだったという単独の人と出会ったが、どうやら駐車場に1台あった車の持ち主のようであった。
雨量観測所のピークまで来ると粟畑が目前となる。3年前は燃えるような粟畑の紅葉に感激したのだが、今年はうっすらと色づいているだけで紅葉にはまだ1週間以上も早いようであった。ザックをおろして休んでいると、小雨が早くも降り出してきて、あわてて雨具を羽織った。あまりに早い雨の降り出しには愕然とする。いままでも視界のはっきりしない天候が続いたが、ますますガスは濃くなっており、至近距離に聳える障子ガ岳もうっすらと見えるだけであった。雨量観測所からは粟畑の巻道を通って天狗角力取山に向かった。しかし、雨風はますます強まるばかりで、ひとまず天狗小屋に逃げ込むことにした。誰もいない天狗小屋で濡れた雨具等を取りあえず脱ぎ、二階に上がってしばらく天候の快復を待った。しかし、西の空には真っ黒な雨雲が居座ったままで、快復する兆しは少しも見えなかった。
今日の行程で一番気がかりなのは出谷川の渡渉であった。水量が増しているのは間違いないと思われたが、それがどの程度なのかを考えると不安が募った。しかしこのまま下山する気にもなれず、小一時間ほど経ったところで雨風が幾分弱くなったのをみて小屋を出た。渡渉が不可能な場合は途中で引き返すつもりであった。雨は少し小降りになっていたが稜線にでると予想以上に風が強く、以東岳の主稜線は全く見えなかった。ウツボ峰分岐からは西に延びる尾根道となり、樹林帯に入ると風も弱まって気分がだいぶ楽になった。鬱蒼としたブナ林の樹林帯が続き、3年ぶりに歩く山道はとても懐かしい感じがした。はじめは緩やかな尾根道も出谷川の沢底が近づくにつれて急坂となり、最後は一気に下って出谷川に降り立った。出谷川の沢底までは700mを下ったことになり、なんとももったいないほどの高度差であった。
出谷川の水量は前回よりもはるかに多く、流れも激しかった。先日の台風の影響もあるのかも知れなかったが、水深は概ね膝くらいあり、沢の上流から下流部を眺めてみても、前回のように石伝いに渡れる場所は見あたらなかった。私は2本のストックを頼りに幅の狭い箇所を選んで渡ろうとした。しかし、距離がありすぎてうまく石の上に飛ぶことができず、登山靴はあっさりと水中に入ってしまった。結局、ジャブジャブと出谷川を歩いて対岸に渡ったが、渡り終えるとそんな行動をあざ笑うかのように、見る間に大粒の雨が音を立てて降り出してきてしまい、私は泣きっ面に蜂のような心境だった。深閑とした山奥に雨の音だけが響いた。
出谷川から明光山へは急勾配の登りで始まる。道らしい道もない山の斜面はただでさえ登りづらいのに、今日は雨のためになおさらスリップした。また濡れた登山靴はがっかりするほどの重量感があり、両足に重い足枷をはめられているようなものであった。やはり登山靴は濡らすものではないなと思っても後の祭りだった。雨は容赦なく頭上からたたきつけるように降り続いた。きつい急斜面を登り切るとミズナラとブナ林のヤセ尾根となり、まもなく明光山に着くと一段落だ。ここは三角点があるだけのピークだが沢底からはちょうど半分だけ高度を稼いだことになる。すでにTシャツはずぶ濡れの状態で、少し休んでいると体はたちまち冷えてしまう。震えは止まらず雨具はほとんど役には立たなかった。明光山からは背丈の低い潅木帯に入ったが、視界が無いというのは目標物がないだけにどこまで登っているのかわからなくなった。行けども行けどもウツボ峰が見えないので疲れが倍加する気がした。気温はだいぶ低く、体が冷えるのを防ぐためにも歩き続けた。引きずるような足どりで草原を登り切るとようやくウツボ峰に着いた。
ウツボ峰から以東岳までは小一時間の距離だ。少し休んでいると人の話し声が聞こえ、まもなく女性が二人、雨とガスの中を登ってきた。二人は東京からの人達で、早朝、泡滝ダムを発ってきたらしかったが、こんな悪天候でも登ってくる人はいるのだなあと驚いた。今夜は以東小屋泊まりだというこの二人は、大きなザックを背負いながら、私と同じようにバテバテでここまで登ってきたようであった。以東岳は初めてだというので以東小屋の位置や水場の場所、そしてここからの登山道の状態などを簡単にアドバイスした。二人とも疲れ切った様子で、以東岳までは30分以上かかることを話すとがっかりしていた。二人と話をしていた時間は短かったが、このあいだにすっかり体が冷え切ってしまい、私は震えが止まらなくなっていた。ウツボ峰から以東岳までは45分ほどで到着した。風雨とガスのため何も見えない山頂であった。もう一歩も歩けないほど疲れ切っていたが、明日の天候は今日以上に悪くなるという予報などから狐穴小屋まで足を伸ばすことした。
狐穴までも悪天候は続いた。この区間は広いガレ場が多く、視界がない中では登山道もよくわからない。ヘタをすると迷う恐れもあるので、かすかな踏跡を探しながら進んだ。狐穴小屋近くでは雨の中にもかかわらず、数人の作業員が登山道の修復作業中で、小屋の隣には工事のためのプレハブ小屋も建っていた。狐穴到着は16時10分。周りはすでに日没後のような薄暗さに包まれていた。小屋の前では滔々と水場から水が溢れており、もう歩かなくていいのだという安堵感にしばし浸った。小屋に入るとひとまず濡れたTシャツを着替えたが、ズボンやパンツは着干しするしかなかった。今日の山小屋は、この狐穴小屋で一日停滞していたという茨城からの単独行氏が一階に一人と、二階には東京からの女性グループ6名の計8名の泊まりだった。女性達は今日の悪天候の中、大朝日の避難小屋から来たらしかった。私は取りあえず缶ビールを開けてはみたものの、疲れ切っていたためか吐き気がしてほとんど飲む気がしなかった。お湯を沸かして焼きソバを作って食べ、その後はシュラフにもぐって死んだように眠った。
(二日目)
翌日も朝から雨が降り続いた。東京の6人組は3時頃から起き出して、ヘッドランプをつけながら5時前には以東岳めざして小屋を出ていった。彼女たちは泡滝ダムからタクシーで鶴岡に出て帰京するとのことであった。私は一晩寝て疲れはだいぶ取れてはいたが、急いで起きる気にはなれず、昨日は無理をしてこの狐穴まで足を伸ばしたのだからと、久しぶりにのんびりとシュラフにもぐっていた。茨城の単独行氏は以東岳を往復してから日暮沢に下るらしく、私より一足早く小屋を出た。昨日の夜は食欲がほとんどなかったが、一晩寝て体調はだいぶよくなっていた。朝食はいつものアルファー米だったが、熱い味噌汁と漬け物が食欲をそそった。
ほとんど乾いていない雨具に身を固めて6時半に小屋を出た。水場を横切り、三方境をショートカットで高松峰へと向かった。視界は相変わらず悪かったが、昨日の以東岳からの下りから比べれば迷う心配がない分だけ気分は楽だった。しかし、天狗角力取山までは何箇所にもわたって上り下りが続くことから、この区間はむしろ登りの感覚に近いところだ。高松峰からはうんざりするほどのアップダウンが延々と続き、登り返しでは決まって喘ぎ声が漏れた。オバラメキとコバラメキの岩稜帯は晴れていれば気持ちの良い岩場のヤセ尾根なのだが、今日は雨で滑りやすいだけに慎重に歩いた。雨は相変わらず降り続いていたが、周りの灌木は色とりどりに色づいており、稜線の紅葉は今が盛りであった。二ツ石山へのなだからな尾根道となるとようやく安心感に包まれた。途中、最低鞍部付近に新しい水場の標識ができていたが、水場まではかなり時間がかかるらしく下りてみる気にはなれなかった。ようやく登り着いた二ツ石山にも真新しい標柱がポツンと立っていた。狐穴小屋周辺の登山道修復もそうだったが、途中の岩稜部でのフィックスロープなども以前はなかったものであり、最近はこのルートを歩く人も以前から比べればかなり増えたのかもしれなかった。
天狗角力取山には9時半に着いた。狐穴小屋を出てからちょうど3時間だった。雨足はさらに激しさを増しており、山頂からはうっすらと雨の中に天狗小屋が見えたが、立ち寄る気分にもなれず、まっすぐに下ることにした。粟畑から下ると登山道は濁流が流れる水路と化していた。この濁流の中を歩いていると恐怖感が募ってくるようであり、早く安全地帯まで下らなければと、そればかり考えながら下った。竜ガ岳手前の2ヶ所の小沢は通常は水場となっているところだが、連日の降雨のため茶色に濁っているので飲む気にはなれなかった。竜ヶ岳のトラバースが終わると後はだらだらと長いバカ平を歩くだけであった。降りしきる雨はすでにシャツからズボンにまでも浸透してしまい、その鬱陶しさから早く解放されたくて、私は下山後の温泉だけを楽しみにひたすら歩き続けた。