7時35分「合体の樹」を通過する。標高900mを越えると登山道には雪が現れ、少し先からは一面の雪原となり、夏道はほとんどわからなくなった。足元をみると今日は2人分の踏跡が続いている。一服清水もほとんど雪に覆われているので、まだ水は汲むことはできなかった。一服清水からハナヌキ峰の分岐までは雪道のトラバースだが、朝のうちは雪は締まっているので滑落の危険があるところだ。先行の二人はここからアイゼンを装着していったようだが、私の軽登山靴では蹴り込みも弱く、今日はアイゼンもピッケルも車に置いてきたので慎重に通過しなければならなかった。急斜面のトラバースが過ぎても雪道は続いた。しかしこの先は特に危険というほどではなくストックでバランスをとり、適当にショートカットしながら雪渓を登って行く。雪面から立ち上がったブナの枝が一見ヤブのように登山道を塞いでいるので、雪道の方がかえって歩きやすいのだ。先日の飯豊から比較するとこの辺りの積雪の多さには驚くばかりだった。三沢清水はもちろん分厚い残雪の下であり、今の時期にはどの辺にあるのかさえわからない。古寺山北面の巨大な雪庇に上がると古寺山と小朝日岳の山頂、そして大朝日岳の主稜線が飛び込んでくる。しばらくすると下ってくる一人の登山者とすれ違った。先行していた二人のうちの一人らしく、早くも古寺山から引き返してきたらしかった。
古寺山からもほとんど雪道が続く。ときどき夏道を歩くとカタクリの群落がめだった。今日は快晴を期待していたのだが、意外と薄雲が広がる、あまりパッとしない空模様であった。ときどき日差しが遮られると風が強まったりした。私は風邪気味ということもあって、この冷たい風に当たると熱がぶり返しそうになり落ちつかなかった。小朝日岳山頂ではようやく先行者に追いついた。聞いてみると村上からきた人で、私と同様に大朝日岳への日帰りであった。背後を振り返れば白い月山がそびえ立ち、その左奥には鳥海山もくっきりと浮かんでいる。聞こえるのはウグイスのさえずりと風の音だけで静かな朝日連峰であった。村上氏はまもなく大朝日岳に向かって先に出発してゆく。私はだいぶ遅れて発ったにもかかわらず、その村上氏には熊越への下りの途中で追いついてしまった。どうやら村上氏はかなりゆっくりしたペースで登っている人のようであった。熊越を過ぎ、ひと登りすると気持ちの良い稜線歩きとなる。まだ花の盛りには早かったが、残雪を抱いた山々は美しいばかりで眺めていると飽きることがなく、春山はこれだからやめられないなあという気持ちがこみ上げてくる。稜線では夏道と雪道が交互に現れたが、銀玉水から先はまだ一面の厚い雪に覆われていた。アイゼン無しではきついかもしれないと心配したが、このころには気温もだいぶ高くなっていて坪足でも全く問題はなかった。キックステップとストックを頼りにグイグイと登ると大朝日小屋はまもなくだった。小屋には誰もいなくてひっそりしている。小屋では休憩をとらずにそのまま山頂へと向かった。
11時45分。ようやく大朝日岳の山頂に到着する。空気が澄んでいるからだろうか、山頂からは逆に遠ざかっているはずなのに、小朝日岳からよりも鳥海山と月山がひときわ大きく見えるのが不思議だった。先日登った葉山にはもはや雪はほとんど見あたらなくなっていた。熊越で追い越した村上氏の姿ははまだ見あたらない。他にはどこを見渡しても登山者の姿はなく、今日は大朝日岳を独り占めであった。缶チューハイで一人祝杯をあげ、味噌汁を作って、いなり寿司を3個食べる。そして食後は山頂にゴロンと横になった。今日は五月晴れとは行かなかったが、いつのまにか風もおさまって穏やかな陽気が戻っていた。春の日差しが心地よく、思わず眠くなってしまうようであった。しばらくうとうとしていると、どこからか荒い息づかいが聞こえてきて目を覚ました。起きあがると登山者がひとり、ナカツル尾根を上がってくるのが見えた。その人もやはり誰もいないと思っていたらしく頂上に眠っている私をみて驚いたようであった。福島からきたというその人も日帰り組で、しばらく雑談などをしながら時間をつぶした。
1時間ほど休んで下山を始めると先ほどの村上氏がようやく山頂に登ってくるところであった。昼を過ぎると天候は午前よりもずっと穏やかなものになっていた。せっかく登ってきただけに、急いで下る気持ちにはなれず、稜線ではのんびりと展望を楽しみながら歩いた。熊越から小朝日岳の急坂では鳥原山経由で登ってきたという単独行に出会った。今日は大朝日小屋泊まりだというので、「今晩はたぶん一人ですよ」というとがっかりしていた。この人も福島からやってきた人で、結局、地元からの登山者は私ひとりだけであった。小朝日岳からはほとんど雪道歩きとなる。この雪が一服清水までつながっていることを考えると、今日はミニスキーだけでも持ってくればよかったかなと半分後悔した。
疲れはそれほど感じていないのに、約5カ月ぶりの登山靴での山登りは意外にも負担が大きかったのか、ハナヌキ峰付近からは膝が少し笑い始めていた。膝の痛みは久しぶりで、それだけに下りで使う筋肉はスキーとは全然違うものだということかもしれなかった。痛みだした足を庇いながら下るのは決して楽ではなかったものの、一方ではGWの喧噪が過ぎ去った静かな朝日連峰を歩くことができて、充実した気分に浸っていた。